1999年7月の日記

07 May, 1999

いつものことながら、締切(更新日)の前日まで慌てて原稿書いてるというこのパターン。
紙のメディアと違って、自分で決めたことなんだから、もうちょっと余裕持ってやればいいのにと思うのだが、何でこうなってしまうのか。
原稿って、追い詰められないと書けないものなのか。プロの物書きでもないのに、妙なところばっかり共通してるなあ。

今回は少し沢山更新しようと思ってたのだが、「ビジネス風水」用の原稿、二本のうち一本がどうも気に入らなくてボツ。
おまけに「雲切コーナー」の成田山の稿、どうしてもアップしようという気になってしまい、資料の確認などもあってまたまた時間を食う。


表紙もなんだか気に入らなくなったし、サイトマップも作りたいが、これは近日中にアップということで。
「方位地図」も沢山作ったので、今度アップする筈だったのに、どういうわけか、フォルダごと跡形もなく消えてる。
何だかよく分からないけど、犯人は机の側のウイスキーボトルだということにして、また作るしかないなあ。

柳美里(ゆうみり)の作品のモデル問題で有罪判決が出た。ホーム・ページ開設で送り手側となった私にとっては、ちょっと気掛かり。

一般の人は「友達のプライバシー暴いて小説にして儲けるなんて」という程度だろうが、そういう問題とは違うと思う。
私は元来、表現というのは誰かの血を流した上に成り立つものだと思っている。それが書いた当人なら問題はないが、自分以外の人だった場合にはやはり、シビアに考えると思う。告発ものやノンフィクションの場合は別の対象だ。

でも私としては、モデルに似ていようがいまいが、作品が文学的感動を呼び起こすものであれば良いと思っている。単に実在の人間をそのまま描いたとしても、作品が文学として成り立てばいいと思うのだが。(普通、そういうことはあまりない)

「あなたをモデルにして小説書くけど、いい?」と言ったら周囲の人は何と言うだろうか。
「もっと眼をパッチリ、鼻は高く、色白に。あと、体は3キロスマートに」と言うに決まっている。それが嫌だから、モデル小説と言われないように、完全に設定を変えるんだと思うのだが。

作品はもう読めないのでなんとも言えないが、私としては作家の立場で見たい。もっとも私人をモデルにするときは大幅に設定を変え、十分気をつける、という原則にしておけばこんなことにならなかったのに、と残念に思う。
この問題は、日本において私小説があまりにも盛んなことからもきているのではないだろうか。
私はあまり私小説は好きでないが、ひょっとしたら個人のホーム・ページがこんなに増えたのも、私小説の土台があるからかも知れない。

しかし大江健三郎みたいに原告側に立って、「私が家族を題材に(障害を持つ子供がいる)作品を書いた時には、妻に読んでもらって、これは書かないで欲しい、と言われた部分は直しました」なんてのは、作家としてどうなんだろうか?と思ってしまう。

tao

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