神の領域

10 January, 2009

◆クローン牛誕生
近畿大学と県畜産研究所の研究チームによって、飛騨牛のクローンが誕生していたというニュース。

同時期に、筆者の身近でも、赤ちゃん誕生のニュースが続いた。
なにはともあれお目出度いことなのだが、生命の誕生というのは、けっこう微妙な部分があり、ガラにもなく(?)真面目にいろいろ考えてしまう今日この頃。

ちょっと乱暴な言い方なのだが、牛のクローンを作るというのは、食肉を作るのが主な目的だから、いわば物質的なモノの再生産だと思う。味を別にすれば、普通に生まれて適当に育てた牛と、元祖飛騨牛のクローンの間に、そんなに決定的な開きがあるのだろうか?

何故なら、クローン胚から牛を育てても、大人になるまでには普通の牛と同じに餌を与えなければならないわけだから、地球の生態系や食物連鎖には、そんなに影響しないと思う。そりゃあ、すでに育ちあがった大人の牛から細胞を取って、ただちに大人のクローン牛が出来上がり、小さな牛の細胞が3日ぐらいで大量のホッカホカの食肉になるのなら、ちょっと考えてしまうが…
もちろん、味や値段は度外視で、「肉」という物質としての話だ。
クローン牛に関して、何となく反感とか不気味な感じを抱く人達と、あんまり気にせずに「キロ何万円とかの高級食肉を安く食べられるんなら別にいいじゃん」という層に分かれても、不思議はないと思う。

こういう技術革新が重なると、当然、人間のクローンまで話が進んでしまう。知り合いの通う大学でも、「生命倫理学」なる講義があって、内容を興味深く話してもらったことがあるのだが、何でもできることはやっていいものではない、とも思う。


◆生死と「神」
例えばすごく単純な話なのだが、私達は誰でも、台所にある包丁で人を殺すことが可能だ。生命は重いもの、生命は尊いもの、ということになってはいるが、ある場面では、生命の誕生や抹殺はいとも簡単に行われる。でも、いろいろと考えて、なかなか実行には移せない。
若い男女が、特に避妊手段を講じないで普通にセックスすれば、一年も経たないうちに、普通に人間の生命は誕生する。反対に、包丁やピストルで、いとも簡単に生命を奪うこともできる。
ほんとうに、技術的には簡単なのだ。

でも、私達は簡単には人は殺さない。物質として見た人間はほんとうに吹けば飛ぶような存在だが、文明社会に生きている私達は、人間として生きることの尊さ、喜びや悲しみ、人生観や価値観のなんやかんやに思いを馳せる。そして、命は重い尊いものだから…と言って、いろいろ苦しんだり悲しんだりもする。
そして、バースコントロールが可能になり、「子供が生まれる」ではなく「子供を作る」という状況が普通になった為に、かえって迷いも増えた。人間の生命を自分の意思で産みだすか否かの選択は、ある時には重すぎる決定権になる場合もある。

だからもし、優秀な人間のクローンを作りました、となったら、「ちょっとそれは違うんでないかい?できるからと言って、何でもやっていいってもんじゃないだろう」と言う。
でも…クローン牛とクローン人間の間に、そんなに技術的な開きがあるのだろうか?

現在だって既に、人工授精で子供を持つ夫婦も少なくはない。一昔前、立花隆あたりが「試験管ベビー」と言う言葉でこの問題にスポットを当てた時代には、少しセンセーショナルな感じで受け止め、どう反応したらいいものか、ちょっとだけ戸惑った。試験管の中で生を受けた人間がこの世の中に存在して、どこかに生きているということに、何か不思議な感覚を持った。
でも昨今は、そんなに珍しい話でもない。筆者の弟夫婦も、不妊治療に通い、人工授精で子供を持ってごく平凡な家庭を営んでいる。
「クローン人間」は、かなり昔から、人間と科学者に投げかけられた、究極の踏み絵なのではないだろうか。思えば、「フランケンシュタイン」が出版されたのは1818年。クローンではないが、人工人間を創り出すという、神の領域を踏み超えるか超えないか…非常に微妙な問題を孕んだ作品である。

「フランケンシュタイン」は、作ったのが人間だからホラー小説の部類。
でも、「ジュラシックパーク」は恐竜だから、ファンタジーとかエンターテインメント。
普段はあんまり考えないけれど、想像をたくましくすれば、もっともっとありそうだ。

◆人間であるということ
でも、クローン技術を人間に応用することに関しては、やはり大きな障壁がある。人間は単なる肉ではなく、個性と精神を持った存在で、それがたとえ好ましくないものであっても、私たちはそれを「神の領域」として受け入れて暮らしているからだ。
私たちはもっと優れた親の遺伝子を受け継いでいれば、ひょっとして、自分の肉体の貧弱さ、意志の弱さ、能力のなさに臍を噛みながら、つつましく生きている必要はないのかもしれない。
でも、人工授精で子供を持つ親にしても、ほとんどが夫婦間での卵子と精子を用いる。同じ時間と手間と費用をかけるのなら、ひょっとしたらもっと優秀な子供を持てるかもしれないのに。
未知の他人の精子や卵子を用いる人工授精との間には、やはり障壁がある。やはりそこに、何となく「神の領域」があるような気がしているからだ。

「ガタカ」(1997年、アメリカ)という映画がある。遺伝子操作によって生まれた人間だけが「適正者」として生き残り、自然出産で生まれた者は「不適正者」として差別されるというSF映画なのだが、脚本も俳優もよく健闘しており、なかなか興味深い映画だ。
人類の未来や生命の尊厳という問題に関心を持たれた方には、かなり面白い作品なので、是非いろんな人に見てもらいたい。
人類は、どこまで生命に手を加えることができるのか?できたとしてもそれが正しいことなのか?と、「神」を信じる信じないにかかわらず、どこかで突き当たってしまうテーマだ。

人類は、技術的には神の領域に踏み込むことが、どんどん可能になってきている。人工授精、臓器移植、クローン生命体など…。ひいては上下関係への態度も変わってきたように思える。しかし、上下関係の基本である「神仏」にかかわりの深い宗教界では、臓器移植に反対の立場を取っているケースが多いようだ。
「身体髪膚これ父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり」も、元は「自分自身を大切にして励みなさい」という教えだったものが、現代では臓器移植問題にまで発展してしまった。
尊属殺人という規定も廃止された今、上下関係が曖昧になるのも仕方がないことなのだろう。中高年の人は昔、アメリカ映画で子供が親に向かって「ねえ、ジョニー!」とか名前で自分と同等に呼びかけるのを見て、かなり違和感を持ったことと思うが、そんな感覚も薄れてしまった。

でもやはり、生活習慣がどんなに変わろうが、神の領域というものはあるのだ。牛のクローンを作ることと人間のクローンを作ることの間には、厳然たる境が存在する。やはり人間のクローンはSFの分野に留めておくのが、人間のモラルというものではないだろうか。

◆占術界の「神」の立場
しかし、「神」の概念は、クローン問題だけには留まらない。その世界にはその世界なりの、神の領域というものがある。バイオテクノロジーの世界では、今回話題にしたクローン問題が神の領域の近くにあるものだが、筆者のように占術にかかわっていると、けっこう微妙な問題が多い。

もともと、占い、占術というのは、人間の運命、宿命という非常に深く微妙な問題に踏み込むものなので、一つ間違うと恐ろしいことになりかねない。
あまり若い人にマニュアル的な占いを教えるのに二の足を踏むというのは、このあたりの問題にかかわっている。

例えば、東洋占術に於いては、陰陽五行が「神」だ。人間に陰陽五行を当てはめる場合には、生年月日を陰陽五行に置き換える。
だから、占術における神とは、生年月日であるともいえる。
いろんなことが、生年月日から分かる。生年月日で宿命を占う。名前や家相と違い、生年月日というものは後天的には変えられない。だから、深く面白いのだ。

ところが、昨今の科学の発展ぶりからすると、この神の立場が時折怪しくなるケースに直面することがある。
例えば、風水、陰陽五行、四柱推命では、男女によって命式も判断も違う。一例で言えば、陽干生まれの場合、男性だと順運で、女性だと逆運になる。四季の巡り方も反対になる。
ところが、性転換をした人をどう見るか?

はっきり言って、これは筆者には決められない。
無責任なようだが、筆者はそこで神になろうとは思わない。無理に答えを出そうとすると、性転換する前と後で別々に見ればいいのかもしれないが、そんなに奇麗に線を引けるほど、ことは単純ではないだろう。

また、生年月日は変えられないという前提で、全ての占いの基礎になっており、その為に喜んだり苦しんだりしているわけだ。
この日この時間に生まれてきたのが宿命だから…こんな自分だから…、と、人は自分を哀れみ愛しく思い、歯がゆくも思い、むなしい努力をもする。

…が、ある場面ではあっけなく、占術の世界の神になることが出来る。
実際には、昨今では誕生日は決められるのだ。帝王切開などの場合には、親が出生の日時を決めることが、かなりの程度可能になる。でもこれも、占いの分野では神の領域だ。小ざかしい計算が成り立たないからこそ、運命は面白い。
もちろん、人間の素質とは生年月日時だけではなく、先祖関係や親の因縁など、もっと根の深い部分があるので、誕生日だけコントロールしても、後で大きく揺り戻しが来るのがオチだと思う。

子供を産むも産まないも自由。でも子供は自分の思うようにはならない。思い通りにしようとすると、必ずしっぺ返しが来る。神の領域に踏み込もうとすればするほど、反動も大きい。人間の計算なんて、その程度のものだ。

宿命は決まっている。しかし、宿命は自分で決められる。よく分からないかもしれない。筆者もどこまで分かっているのか分からないが、案外答えは身近にある。
しかし、こざかしい計算が、絶対に運命にとってプラスにならないことだけは、断言できる。並外れた高いIQの持ち主のクローンが可能になったとして、また星占いや四柱推命で最も良い誕生の時を決めたとして、果たして完全無欠な人間が出来、全く悩みのない人生が送れるのだろうか?

占術にかかわる者として、運命とはいつまで経ってもつかみ所のない曖昧模糊としたものだという感が、拭いきれない。だが、人の幸不幸にかかわる根幹部分には、ある種の信念を持つことが絶対に必要だ。それが占いの世界のみならず、全ての人の「資質」であり、「神の領域」だと思うのだ。

tao

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