「冷血」と「アラバマ物語」と「易」

07 June, 2007

タイトルが、かなりかけ離れた単語の寄せ集めのようだが、それなりの理由があって、このタイトルとなった。


■易の効能
最近、身近に、常になくもの凄く腹の立つことがあり、それが一ヶ月ほど続いていた。あまり具体的に説明するようなことでもないが、このことで、ある係わりの中で、自分の中に積もっていたものが、物凄くストレスになっていたのだと気づく。

それで、いちおう考えて態度を決めた積りなのだが、やはり本気で腹が立っていたせいか、周囲を少しびっくりさせてしまう。
自分でもやり過ぎてはいけないと思い、少し気を落ち着けて、易を立ててみた。

易は、練習としてちょくちょく立ててはいるのだが、あんまり何か、目的をきちっと決めて立てることは少ない。
昔は、練習の為にもっと頻繁に立てていた筈だし、手持ちの本にも自筆の書き込みがあるのに、すっかり忘れている。やはり、「易」という深遠な思想を少しでも受け止めて解釈することが出来るようになるには、それなりの過程が必要なのかもしれない。

私は易に関しては、易経の知識よりも、易を立てる時の状態とか姿勢が一番問題だと思っている。卦を覚えていなければ、本を開けば良いことだ。立てる時の境地と、受け止める姿勢の正しさが、一番大切だと思う。
なので今回は、きちんと読経して、無念夢想で立てた。

立て方は、自分のしていることが良いか悪いか?ではなく、また周囲の為にどうなのか?でもない。
今回のことが、天地自然の真理からして、神明にかけて、また長期的に見てどうか?である。たとえ人間が、短期的に見て損をしたとしても、そんなことはどうでもいい。
このあたりの姿勢は、たぶん私の独特の性格だろうと思うが、直らないし、直す積りもない。

それで、結果は…
風水巷談の「易とタロット」で書いた、引いても引いても出るFool…じゃないけど、誰かが操作してるの?という感じの卦だった。続けて他のことも問うてみたのだが、やはり…
別にFoolっぽい答えが出たわけではないのだが、これ以外に出ようがないだろう、という卦だった。

ま、それぐらいは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」なんて片付けちまっても、別にどうということはないのだが、何故か卦を立てた瞬間に、自分の中にあった毒気が、瞬時にして雲散霧消してしまった…
…これって何?ほんとに、便秘が治って開通したみたいな気分…

なんだか、自分自身と見えない世界の間に、易が仲立ちになって三者にパイプが通り、そのパイプを通じて毒が抜けていった感じ…

現金な話だが、易ってこういう効用もあるんだな、と思い知った瞬間でした。易が立つ時には、筮竹割って数えている時に(これは卦が立ってる)とピンと来るものだが、ほんとに易って不思議ですね。
占いのツールっていうよりも、まさに自分の修行。なんか、易を立ててると、人間が向上するような気がします…なんちって…私、単純かも…(^^ゞ

という、よく分からない自慢話はどうでもいいのだが、同じ日に何となく「カポーティ」という映画を見た。


■映画「カポーティ」と「冷血」
「カポーティ」は「ティファニーで朝食を」や「冷血」の作者の、トルーマン・カポーティの伝記映画だが、これがまた、当たりだった。

「冷血」は発刊当初に本も読んでいたし、映画も見ていたので、好きって言うよりも、ついつい注目しており、いろんな批判はあるものの、強く印象に残っていた。
それが今回「カポーティ」を見て、少し印象が変った。

「冷血」は1966年の発売当初、こういうキャッチコピーだったのを覚えている。
「徹底した取材の元に、完全なる事実のみを冷徹に書き記した…」とかナントカ…

このマンマではないが、とにかく「完全」とか「徹底」とか「事実」とかいう言葉が、やたら断定的に使われていた。
その為、私は(当事者だって完全な事実は掴めないのに、そんなことがあろう筈がない)という反感があり、それも読んだ動機の一つだった。
そういう、反感という色眼鏡をかけていたにもかかわらず面白かったので、キャッチコピーのことはしっかり覚えている。

私は、「冷血」じたいは、いちおう興味深く読めるものの、そんなに優れた作品ではないと思っている。ノンフィクション小説ならば、吉村昭が好きだ。作者としてのスタンスに、変なブレがないからだ。
しかし、今回「カポーティ」を見て、そこに「アラバマ物語」の作者がかかわっていることを知り、「冷血」の書かれた過程が、非常に面白かった。

トルーマン・カポーティはルイジアナ州ニューオリンズ生まれだが、両親が離婚した為に、アメリカ南部の各地を、遠縁の家の厄介になりながら、転々として育っている。母親は後年自殺している。
そんな中で、アラバマ在住当時の隣人で幼馴染なのが「アラバマ物語」の作者ネル・ハーパー・リーだった。

ネルは「冷血」の取材助手としてカポーティに同行しているので、その当たりの事情も本には書いてあるのだろうが、私はほとんど前書きや後書きを読まない。今回の映画で初めてそれを知った時には、何だか安心したような、納得したような気になった。


■「アラバマ物語」とネル・ハーパー・リー
「アラバマ物語」は、ピューリツァー賞の受賞作で、南部の黒人差別を題材にした、非常に力強い暖かさと信念に満ちた、親子の愛情と勇気の物語だ。
男やもめの弁護士の娘・スカウトの回想という形で書かれている。
この弁護士の父親の影響を受けて育った娘の像は、そのまま「カポーティ」のネルの人物像と重なる。本も映画も素晴らしく、DVDは500円の廉価版が入手しやすいので、未見の方は是非、一見をお勧めしたい。
このような、強く忠実で、しかもある意味で厳しいネルの助けがあって、「冷血」の取材が完遂できたことは、「冷血」を読んだ時には知らなかった。

「冷血」後に、カポーティはほとんど創作力を萎えさせてしまい、アルコール中毒になって急死しているが、助手がネルでなかったら、冷血を書き上げることができたかどうかは疑問、という気がする。


■「冷血」の毒
トルーマンは、天才肌の巧みな話術を持った作家だ。しかし、子供っぽく未成熟な部分も散見される。犯罪者との接触ということを、甘く見ていたのではないかと思う。
犯罪者という、マイナス想念や思考形態を持った人物は、周囲にもマイナスの波動を与える。これは法に触れる犯罪者に限ったことではなく、いろんな人と接触する私たちの、日常生活にも言える。
いや、「仏法」という「法」では、言葉でも顔でも、マイナス想念を撒き散らす行為は、すでに立派な罪人なのだが。

人間はみんなグレーの存在なので、犯罪者とそうでない人の線引きは、本当は難しいのかもしれない。ゴミのポイ捨てだって、場所によっては立派な犯罪だし、詐欺師が大手を振ってテレビに出てもてはやされていたり、永田町を闊歩していたりする。
だから誰でも、毒素を浄化する自分なりの回路を持つことが必要なのだが、私にとってはそれは易や読経や武道であり、「冷血」という作品にとっては、ネルの存在だった。
(ネルは女性だが、カポーティはゲイなので、異性としての関係ではない。カポーティのゲイの愛人は、むしろストレスになっている感じ)

しかし、トルーマン・カポーティ当人にとっては、選んだ題材が、自分自身の浄化能力を超えていたのだろうと思う。
映画「カポーティ」の中で、印象的な言葉が幾つかある。

ネル「あなたは、ペリー(犯人)を愛してるの?」
トルーマン「利用しながら愛するなんて無理だー(悲鳴)」

トルーマン「俺は、ペリーを救えなかった…」
ネル「あなたは救いたくなかったのよ」

トルーマン「本のタイトルは『冷血』になりました」
捜査部長「それは、犯罪そのもののことですか?それとも犯罪を利用している、あなたのことですか?」

みんな、カポーティを支持しているような、いないような…かなり的をついていてキツい。
中でも、最後の捜査部長の言葉なんかは、タイトルを見た時から私も割り切れなかったことなので、あまりに的を衝きすぎていて痛快だった。

たぶんカポーティは、この作品を心から愛することはできなかったと思う。彼自身に、いろんな矛盾がある。
犯人と親しくならなければ、犯行のことを話してもらえない。しかし、親しくなると、弁護士を紹介して延命措置の手助けを頼まれる。
彼自身が、犯人に愛着を覚えはじめる。しかし一方で、早く犯人が死刑になってくれなければ、いつまで経っても本は完成しない。
犯人と親しくなりながらも、相手の死による早い決着を望み、自分も相手もごまかし続けるのは、もの凄いストレスだったと思う。
事実、四六時中、拷問にかけられているような状態になって、寝込んでしまっている。

普通ならば、良くないものは何とかして自分の中から追い出すものだが、追い出してしまうと本が完成しないという矛盾。その矛盾が、そもそも自分の中から出ているので、永久に浄化はできないだろう。
小説ならば、どんなに毒を物語の素材として吐き出し続けても、その毒を最後には昇華する、という方向性に行く場合がほとんどだ。しかし、ノンフィクションではそうはいかない。
「犯罪は悪だ」というテーマの元にノンフィクションを書いても、当人の信じる正義という、色のついたものになってしまうだろう。

「冷血」という作品は、執筆の動機がはじめっから、捜査部長が衝いた通りの矛盾をはらんだものだったのだ。地道なノンフィクション作家のような、ある種の潔さのあるスタンスではない。

そんなことを考えながら「カポーティ」を見ると、作家のエゴとか作品の背景が見えて、非常に面白かった。
いや、普通の場合、作品や作家の背景はどうでもいいのだ。作品が面白く有用なものならば、後のことはどうでも良い。その為、私には前書きや後書きを読む習慣がないのだが、「冷血」に関しては、周辺のこと=映画「カポーティ」まで含めて、初めて完結だったということなのだろう。

主演のフィリップ・シーモア・ホフマンも良かった。この俳優はアル・パチーノの「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」で、甘やかされたキモい我儘息子を演じて、すごく印象に残っていたが、性格俳優の面目躍如である。
見た目が実在のトルーマン・カポーティとはかけ離れているのに、説得力満点だった。もう少し、出演作品を探してみたい。

また、こんな状況を見ながら、公の場にほとんど姿を現さず、自身は「アラバマ物語」一本だけで筆を折ったネル・ハーパー・リーの胸には、何が去来していたのだろうか。

私はネルのようなタイプの人を見るたびに、ほんとに凄いと思う。殺傷の気を持った人間との接触は、本当に人をむしばむ。しかし、トルーマンの、ある意味での自殺行為を見守りつつ、自分の役割に徹して黙々と作品の完成に向けて歩みを続ける、それもまた凄いと思う。
「アラバマ物語」みたいな作品を書けるなんて、どんな両親に育てられたのだろうと思うが、毒を浄化するパイプを、自分なりにどこかに持っているのではないかとも思う。


易のことを考えながら、そんなことも考えてしまいました。
ちなみに、私の使ってる筮竹は、練習用のとってもチャチな安物であります。しかし、昔むかし、それなりに因縁のある人から貰ったもので、その後何十年もにわたって、もの凄い量の因縁と功徳を吸いこんでいる竹なので、単なる竹の棒とは違うものになっていると思います。んで、50本なんですよね。買うと普通は51本ありますが。七赤金星の一欠けかしらん…
近く自分で、もう少し高級なものを買い直したいと思うが、もうしばらくこれに頼りそう…

tao

« Prev item - Next item »
-------------------

Comments


No comments yet. You can be the first!

Leave comment

このアイテムは閲覧専用です。