映画「ミリオンダラー・ベイビー」と「頑張って生きる」ということ
23 March, 2007
タイトルとは関係ない話から入るが、アメリカ映画なんかを見ていると、よくこういう光景がある。
普通の中流家庭(?)の夕方の1シーン
母親「今日は学校、どうだったの?」
長男「うん…普通だよ…」
母親「もうすぐ試験でしょ?勉強、順調に行ってるの?」
長男「うん……まあまあ…」
母親「そう、それはよかったわ。頑張ってね、パパもママも、愛してる」
ちょっと…下手というか、陳腐すぎてお笑いの台詞だが、カンベンして欲しい。ここで言いたいのは、家族が信頼しあって、お互いに隠し事はなく、家庭が幸福で丸く収まっている、という会話がかわされているということだ。
登場人物が気のきいたキャラだと、少し崩しが入って、変なジョークを言ったり突込みが入ったりする。しかし、家庭が大切で、すべて丸く治まっている、という前提から入ることは変わりがない。映画だから、この後は当然、事件が起こって、家庭が崩壊していったりするが、どこかでこの「幸福な家庭の絵」が演じられる率が非常に高い。
筆者はこのシーンを見るたびに、(疲れるだろうな…)といつも思ってしまう。
というか、崩壊する前提としてこういうシーンがあるので、「偽者の幸福な家庭」であることは当然なのだろうが。
みんなが努力して、幸福な家庭を作ろうとしている。否、演じようとしている。
しかし、勝手に想像するに、筆者のところに持ち込まれる家庭内の悩みの多くが、どこかでこの「絵に描いたような幸福な家庭」の周辺に居るような気がする。これらの家庭は幸福なのではなく、懸命に頑張って、幸福な家庭を「演じている」ような気がするのだが、うがち過ぎだろうか。
対極というか、似たようなイメージの元に発生する悩みとして、結婚後間もない若妻から、「うちの夫は仕事が忙しくて、夕食の時にも帰ってきてくれません。休みもどこにも連れて行ってくれません。これで幸福な結婚をしたと言えるのでしょうか。相性が悪いのでしょうか?」という相談もある。いや、マジで…。
ホームドラマの見過ぎだよ、と言ってやりたいのは山々だが、そこはグッと抑えて、仕事で忙しくしているのは、あなたと家庭を愛しているから…旦那さんは運勢的に今は仕事に打ち込む時期で、それを承知で応援してあげたほうが…あなたはあなたの生き方を持ちなさい…とかナンとか…。
いや、姑息なことだと思いながらも、そこは仕事なので、当人の受け入れ易いように説得して丸く収めるのが仕事です。(こんなとこでネタばらしてちゃあ、しょうがないけど…笑)
しかし、本音を言うと、マニュアル人生観もここまで来たか、というのが正直なところです。こういう方は、お部屋のインテリアからライフスタイルまでテレビの通りにしないと不安らしい。テレビ見てると馬鹿になるというのは、正真正銘、ホントのようです。
人の悪口はさておいて、「ミリオンダラー・ベイビー」という映画を見た。
アカデミー賞に値する傑作かどうかはさておいて、自分自身、この映画を見て何となく感じたことがある。
周知の通り、私は人の運勢をウンヌンする仕事なので、よくこういった感じのやり取りをする。
「どうも最近、運勢がパッとしないんですが、どうしたらいいんでしょう?」「あなたは今ちょうど、運気の谷間に来ています。人間調子の良い時もあれば良くない時もある。山あれば谷あり。あと○年待てば上り調子になりますから、それまではジタバタせずに力を蓄え、来るべき時に備えましょう。人間、調子の良い時は放っておいても勢いで突っ走るが、運勢の悪い時の過ごし方が肝要」
お粗末!!!(笑)
事実、鑑定をしてみると、妙に符丁が合うので、陰陽五行というのはほんとによく出来たものだな、と思ってしまう。山あれば谷あり…という言葉そのものが陰陽学そのものなので、当たるのは当たり前かも知れない。
また、鑑定依頼も当人が自分自身に疑問を持ち始めたタイミングでの依頼が多い為か、谷間のどの地点かにいらっしゃる方が多い。たまには人間、謙虚になって、来し方行く末に思いを馳せるのも、なかなか味のあるものであります。
ところが、ごく稀に、何て返事をしようか、筆者が頭を悩ませるタイプの方がいらっしゃる。何故か、こういうタイプの方には、幾つか共通点がある。
その一:能力が高く、学歴職歴肩書き、エリートの部類に入る。
その二:努力が第一、という信念を持っており、事実、努力を惜しまない。他人に対しても、努力しない奴は怠け者なだけだ、と思っている。
その三:どこか肝心な部分で、欧米諸国の価値観の中に居る。留学が長かったり、外国人と結婚していたり、海外で仕事を立ち上げていたりする。
……と、こう並べてみて、特に三番目なぞ、ヒジョーに理不尽な問題発言が含まれており、読者諸氏からブーイングの嵐であろうことは百も承知なのだが、自分の日誌なので、思ったことを正直に書かせていただく。
これらの要素、どっか…冒頭で書いた幸福な家庭の姿と、共通点がないだろうか?キーワードは「努力」である。
たぶん、多くの方が、「努力は素晴らしい。努力すれば叶わないことはない。いや、たとえ叶わなくとも、努力して精一杯生きることに意義があり、賞賛に値する」という意見を、お持ちのことだろうと思う。
事実、この「ミリオンダラー・ベイビー」という映画の前半のストーリーは、努力賞賛そっくりそのままだ。まだ見ていない方に悪いので、ストーリーそのものは書かない。
女ロッキー版の前半から急展開して、後半はまた、深刻な要素が多くて妙に考えさせられる映画なので、娯楽作品としてはちょっと???なところもある。
しかし、とりあえず前半は、精一杯がむしゃらに努力する女ボクサーの姿を、ストレートに描いている。そして、ストーリーは突如、暗転するのだが、どうも私には釈然としなかった。ストーリーとしては、前半と後半が分裂しすぎだ。
まあ、映画としての好き嫌いは別問題として、私は内心ずっと、「そんなに無理して突き進んじゃって、揺り戻しが来なきゃいいけど」と思いながら見ていた。原作も映画もフィクションだから、そんなにムキになることはないのだが、前半のサクセスストーリーは、あまりに造りが荒すぎる。
ところが中盤でこの危惧が当たってしまい、うんと深刻なテーマへと物語が進んでゆく。やっぱり山あれば谷ありで、それも、高く険しい山を綱渡りで登れば、その次には断崖から真っ逆さまという展開になってしまった。
その山の登りかたたるや、かなり無理な努力を重ねたもので、そんな無理をしてしまうのも、ヒロインの生まれ育った環境から来るものであることは、物語の伏線として流れている。
ここに来て、私には、努力は悪しきものに感じられて仕方がなくなってしまった。否、これは、努力ではなく、無理である。
考えてみたら私は、「頑張ってね」と言う場合もあるが、意外に「そんなに頑張って努力しなさんな。もっとゆっくりしなさいよ」と言うことが多いような気がする。努力家の方、頑張りやの方、どんな時でも努力しなければならない、と思っている方が多いからだ。
運命学から話は飛ぶが、武道の稽古の中でも、「頑張ります!」というのは日常よく言うセリフなのだが、技の中での「頑張る」は、下手の代名詞だ。
「そんなに頑張ってもダメだろ」というのは、技を磨こうとせずに、腕力で相手をやりこめようとしている場合に受ける注意だ。
技・術の稽古をしに来ているのに、腕力で勝とうとするのは、下の下である。そのせいかどうか、超のつく武術の達人は、女性みたいに小柄でヒョロヒョロした体格の、一見、吹けば飛ぶような感じの人が多い。
人間、努力はしなければならない。しかし、無理は禁物だ。また、努力とは自分が一歩一歩進歩する過程を楽しみながらするもので、歯を食いしばってするものではないと思う。「稽古」もまさしくそれに当たる。
私が武道にかかわって、一番いいことを習ったな、と思ったのは、ある人から「何の為に稽古するか」というテーマについての思いを聞いた時のことである。
曰く「稽古は結果の為にするのではなく、稽古そのものが目的なのだ」
今すぐこれを理解してもらう必要はなく、どっかに留めておいて頂く程度で良いと思うが、奇しくも法華経の行者さんにも、法華経の修行に関して同じ意見を聞いた。
法華経には「成仏する為に、これこれこういう修行をしなさい」と書いてあるのだが、その行者さんは「いったい、何の為に成仏するんだろう?」と、長年思っていたそうだ。それが、何かの弾みに、ふっと悟るところがあって、修行することが楽しくなったそうだ。
筆者なりに、自分の中でこれらのことを噛み砕いて消化していくのは、一生の課題かもしれない。しかし、陰陽五行学にかかわっていると、何となく、今までとは違って見える景色がある。
それは、陰と陽は、どちらも同じように価値のあるもので、一体となったものだ、ということだ。
努力するな、は言いすぎなのだが、いろんな人に接していると、みんな陰陽の「陰」の部分を受けいれていないように見える。悩みの出る人は、自分と家族にはプラス=陽のものしか取り入れることは許さない、という、一種の完全主義の人が多いような気がするのだ。
誰でも、自分の生活や夢や希望の為に、努力すると思う。努力しないでうまい方法があるなんて思ってる人は、こんなしち面倒臭いことを言うサイトには来ていないと思う(笑)
しかし、陽の部分での努力と、陰の部分での努力は違うのではないだろうか。事態が思うようにいかないと、「努力が足りない」と思いがちだが、これをかの、無理して描いたような「幸福な家庭の絵」、「ミリオンダラー・ベイビー」のようながむしゃらな努力と解釈してしまうと、筆者の言う、揺り戻しが来てしまうような気がする。
家庭の役割に関しても、この陰と陽を同等に受け入れてこそ、「緩い」「赦し」のある、一般的な言葉で言えばリラックスできる、楽しい家庭が築けるのではないだろうか。いや、社会生活が表に見える「陽」の部分であるからこそ、家庭では「陰」の部分を暖かく迎え入れ、育んであげるのが、家庭と主婦の役割ではないだろうか。
それを、勘違いしたキャリア志向の強い女性は、えてして陽の部分しか認めまいとする。子供も夫も、疲れること甚だしい。母であり妻である女性自身も、「これではいけない」と躍起になったりする。その結果は、逆効果だ。
いつも完璧で、子供は良い点数を親に見せることが当たり前になっていて、失敗は許されない、幸福な笑顔しか見せることのできない場所は、家庭ではなくビジネスの場だ。家庭が外界の寒風から身を守るシェルターにはならず、安息の場でもなく、親との契約に縛られた努力の場でしかない。そんなのが家庭と言えるだろうか。
家庭から基礎力を得られない、家庭に守られない子供の行く末は………。思い当たる部分のある方は、今からでも遅くない。少なくとも、目覚めないよりは良い。それこそ、努力の時ではないだろうか。
また、人間、10年単位の不遇時代というのはよくあることだ。力のない人はその間、苦しんだり影の薄い存在になっているだけだ。しかし、努力で何とかその谷間を実のあるものにしよう、できる、自分は谷に落ちたままではいないぞ!、という生き方が、前述のその一〜その三の人達のように思える。
その期間に、ジタバタせずに日陰で英気を養っていたならば、次の山にしっかりと登れる筈なのだが、「成せばなる」で厳しい努力をしてきた人達の運気は、かなり無理を重ねた変則的なものになってしまい、流れが読めなくなっている場合が多い。
筆者が頭を悩ますのは、無理をして不運期を取り繕ってきたぶん、晩年に付けが回って来るのも、このタイプの人達に多いからだ。晩年運と子供運は関連しているので、親は立派で努力家だが、子供はドロップアウトした、というのも、このタイプの人達に多いような気がする。
あんまり調子のよくない時に、流れに身を任せて漂っているだけ、というのは努力家からすれば怠け者なのだろうが、もう一つ上から見ると、その方が長い目で見ると賢いし、自然な生き方なのかもしれない。努力で何とかしよう、なる筈だ、というのは、人間の思い上がりのような気もする。
かといって、不運期に努力しなくていいというのではなく、あくまでも陰の時代には陰の努力の積み重ねがあってこそ、陽の時代の積極的な行動の素地が作られるのだと思う。
そのへんを取り違える人が多いのは、残念なことだ。また、海外生活に縁のある人にそのタイプが多い、というのも偏見かもしれない。しかし、いったん海外に出てしまうと、引き返すことの出来ない流れに乗ってしまい、それが本来の自分の流れとは逆流であることも多いので、影響もはっきりと出てくるような気がする。
映画を見ながら思ったことなのだが、やはり陰と陽は、同じぐらいの率で人生を蔽うものだし、陽は好まれるので良いとしても、陰の要素との付き合い方で人生は決まるような気がする。
前に進めば後ろに隠れる人が居る。勝者がいれば敗者が居る。後ろを振り返るのは悪いことなのだろうか?もしかして、この辺に因果の法則の外にある「徳」を考える鍵があるのではないか、とも思うのだが…。
まあ、事業家なんかの経済性優先の人には好まれない話だろうが、家庭を持つ者、使用人を持つ人、上に立つ指導者、社会的影響力を持つ者…、この陰と陽の問題を、果たして避けて通れるだろうか?
ミリオンダラー・ベイビーを見ながら、つらつら考えたことでありました。
普通の中流家庭(?)の夕方の1シーン
母親「今日は学校、どうだったの?」
長男「うん…普通だよ…」
母親「もうすぐ試験でしょ?勉強、順調に行ってるの?」
長男「うん……まあまあ…」
母親「そう、それはよかったわ。頑張ってね、パパもママも、愛してる」
ちょっと…下手というか、陳腐すぎてお笑いの台詞だが、カンベンして欲しい。ここで言いたいのは、家族が信頼しあって、お互いに隠し事はなく、家庭が幸福で丸く収まっている、という会話がかわされているということだ。
登場人物が気のきいたキャラだと、少し崩しが入って、変なジョークを言ったり突込みが入ったりする。しかし、家庭が大切で、すべて丸く治まっている、という前提から入ることは変わりがない。映画だから、この後は当然、事件が起こって、家庭が崩壊していったりするが、どこかでこの「幸福な家庭の絵」が演じられる率が非常に高い。
筆者はこのシーンを見るたびに、(疲れるだろうな…)といつも思ってしまう。
というか、崩壊する前提としてこういうシーンがあるので、「偽者の幸福な家庭」であることは当然なのだろうが。
みんなが努力して、幸福な家庭を作ろうとしている。否、演じようとしている。
しかし、勝手に想像するに、筆者のところに持ち込まれる家庭内の悩みの多くが、どこかでこの「絵に描いたような幸福な家庭」の周辺に居るような気がする。これらの家庭は幸福なのではなく、懸命に頑張って、幸福な家庭を「演じている」ような気がするのだが、うがち過ぎだろうか。
対極というか、似たようなイメージの元に発生する悩みとして、結婚後間もない若妻から、「うちの夫は仕事が忙しくて、夕食の時にも帰ってきてくれません。休みもどこにも連れて行ってくれません。これで幸福な結婚をしたと言えるのでしょうか。相性が悪いのでしょうか?」という相談もある。いや、マジで…。
ホームドラマの見過ぎだよ、と言ってやりたいのは山々だが、そこはグッと抑えて、仕事で忙しくしているのは、あなたと家庭を愛しているから…旦那さんは運勢的に今は仕事に打ち込む時期で、それを承知で応援してあげたほうが…あなたはあなたの生き方を持ちなさい…とかナンとか…。
いや、姑息なことだと思いながらも、そこは仕事なので、当人の受け入れ易いように説得して丸く収めるのが仕事です。(こんなとこでネタばらしてちゃあ、しょうがないけど…笑)
しかし、本音を言うと、マニュアル人生観もここまで来たか、というのが正直なところです。こういう方は、お部屋のインテリアからライフスタイルまでテレビの通りにしないと不安らしい。テレビ見てると馬鹿になるというのは、正真正銘、ホントのようです。
人の悪口はさておいて、「ミリオンダラー・ベイビー」という映画を見た。
アカデミー賞に値する傑作かどうかはさておいて、自分自身、この映画を見て何となく感じたことがある。
周知の通り、私は人の運勢をウンヌンする仕事なので、よくこういった感じのやり取りをする。
「どうも最近、運勢がパッとしないんですが、どうしたらいいんでしょう?」「あなたは今ちょうど、運気の谷間に来ています。人間調子の良い時もあれば良くない時もある。山あれば谷あり。あと○年待てば上り調子になりますから、それまではジタバタせずに力を蓄え、来るべき時に備えましょう。人間、調子の良い時は放っておいても勢いで突っ走るが、運勢の悪い時の過ごし方が肝要」
お粗末!!!(笑)
事実、鑑定をしてみると、妙に符丁が合うので、陰陽五行というのはほんとによく出来たものだな、と思ってしまう。山あれば谷あり…という言葉そのものが陰陽学そのものなので、当たるのは当たり前かも知れない。
また、鑑定依頼も当人が自分自身に疑問を持ち始めたタイミングでの依頼が多い為か、谷間のどの地点かにいらっしゃる方が多い。たまには人間、謙虚になって、来し方行く末に思いを馳せるのも、なかなか味のあるものであります。
ところが、ごく稀に、何て返事をしようか、筆者が頭を悩ませるタイプの方がいらっしゃる。何故か、こういうタイプの方には、幾つか共通点がある。
その一:能力が高く、学歴職歴肩書き、エリートの部類に入る。
その二:努力が第一、という信念を持っており、事実、努力を惜しまない。他人に対しても、努力しない奴は怠け者なだけだ、と思っている。
その三:どこか肝心な部分で、欧米諸国の価値観の中に居る。留学が長かったり、外国人と結婚していたり、海外で仕事を立ち上げていたりする。
……と、こう並べてみて、特に三番目なぞ、ヒジョーに理不尽な問題発言が含まれており、読者諸氏からブーイングの嵐であろうことは百も承知なのだが、自分の日誌なので、思ったことを正直に書かせていただく。
これらの要素、どっか…冒頭で書いた幸福な家庭の姿と、共通点がないだろうか?キーワードは「努力」である。
たぶん、多くの方が、「努力は素晴らしい。努力すれば叶わないことはない。いや、たとえ叶わなくとも、努力して精一杯生きることに意義があり、賞賛に値する」という意見を、お持ちのことだろうと思う。
事実、この「ミリオンダラー・ベイビー」という映画の前半のストーリーは、努力賞賛そっくりそのままだ。まだ見ていない方に悪いので、ストーリーそのものは書かない。
女ロッキー版の前半から急展開して、後半はまた、深刻な要素が多くて妙に考えさせられる映画なので、娯楽作品としてはちょっと???なところもある。
しかし、とりあえず前半は、精一杯がむしゃらに努力する女ボクサーの姿を、ストレートに描いている。そして、ストーリーは突如、暗転するのだが、どうも私には釈然としなかった。ストーリーとしては、前半と後半が分裂しすぎだ。
まあ、映画としての好き嫌いは別問題として、私は内心ずっと、「そんなに無理して突き進んじゃって、揺り戻しが来なきゃいいけど」と思いながら見ていた。原作も映画もフィクションだから、そんなにムキになることはないのだが、前半のサクセスストーリーは、あまりに造りが荒すぎる。
ところが中盤でこの危惧が当たってしまい、うんと深刻なテーマへと物語が進んでゆく。やっぱり山あれば谷ありで、それも、高く険しい山を綱渡りで登れば、その次には断崖から真っ逆さまという展開になってしまった。
その山の登りかたたるや、かなり無理な努力を重ねたもので、そんな無理をしてしまうのも、ヒロインの生まれ育った環境から来るものであることは、物語の伏線として流れている。
ここに来て、私には、努力は悪しきものに感じられて仕方がなくなってしまった。否、これは、努力ではなく、無理である。
考えてみたら私は、「頑張ってね」と言う場合もあるが、意外に「そんなに頑張って努力しなさんな。もっとゆっくりしなさいよ」と言うことが多いような気がする。努力家の方、頑張りやの方、どんな時でも努力しなければならない、と思っている方が多いからだ。
運命学から話は飛ぶが、武道の稽古の中でも、「頑張ります!」というのは日常よく言うセリフなのだが、技の中での「頑張る」は、下手の代名詞だ。
「そんなに頑張ってもダメだろ」というのは、技を磨こうとせずに、腕力で相手をやりこめようとしている場合に受ける注意だ。
技・術の稽古をしに来ているのに、腕力で勝とうとするのは、下の下である。そのせいかどうか、超のつく武術の達人は、女性みたいに小柄でヒョロヒョロした体格の、一見、吹けば飛ぶような感じの人が多い。
人間、努力はしなければならない。しかし、無理は禁物だ。また、努力とは自分が一歩一歩進歩する過程を楽しみながらするもので、歯を食いしばってするものではないと思う。「稽古」もまさしくそれに当たる。
私が武道にかかわって、一番いいことを習ったな、と思ったのは、ある人から「何の為に稽古するか」というテーマについての思いを聞いた時のことである。
曰く「稽古は結果の為にするのではなく、稽古そのものが目的なのだ」
今すぐこれを理解してもらう必要はなく、どっかに留めておいて頂く程度で良いと思うが、奇しくも法華経の行者さんにも、法華経の修行に関して同じ意見を聞いた。
法華経には「成仏する為に、これこれこういう修行をしなさい」と書いてあるのだが、その行者さんは「いったい、何の為に成仏するんだろう?」と、長年思っていたそうだ。それが、何かの弾みに、ふっと悟るところがあって、修行することが楽しくなったそうだ。
筆者なりに、自分の中でこれらのことを噛み砕いて消化していくのは、一生の課題かもしれない。しかし、陰陽五行学にかかわっていると、何となく、今までとは違って見える景色がある。
それは、陰と陽は、どちらも同じように価値のあるもので、一体となったものだ、ということだ。
努力するな、は言いすぎなのだが、いろんな人に接していると、みんな陰陽の「陰」の部分を受けいれていないように見える。悩みの出る人は、自分と家族にはプラス=陽のものしか取り入れることは許さない、という、一種の完全主義の人が多いような気がするのだ。
誰でも、自分の生活や夢や希望の為に、努力すると思う。努力しないでうまい方法があるなんて思ってる人は、こんなしち面倒臭いことを言うサイトには来ていないと思う(笑)
しかし、陽の部分での努力と、陰の部分での努力は違うのではないだろうか。事態が思うようにいかないと、「努力が足りない」と思いがちだが、これをかの、無理して描いたような「幸福な家庭の絵」、「ミリオンダラー・ベイビー」のようながむしゃらな努力と解釈してしまうと、筆者の言う、揺り戻しが来てしまうような気がする。
家庭の役割に関しても、この陰と陽を同等に受け入れてこそ、「緩い」「赦し」のある、一般的な言葉で言えばリラックスできる、楽しい家庭が築けるのではないだろうか。いや、社会生活が表に見える「陽」の部分であるからこそ、家庭では「陰」の部分を暖かく迎え入れ、育んであげるのが、家庭と主婦の役割ではないだろうか。
それを、勘違いしたキャリア志向の強い女性は、えてして陽の部分しか認めまいとする。子供も夫も、疲れること甚だしい。母であり妻である女性自身も、「これではいけない」と躍起になったりする。その結果は、逆効果だ。
いつも完璧で、子供は良い点数を親に見せることが当たり前になっていて、失敗は許されない、幸福な笑顔しか見せることのできない場所は、家庭ではなくビジネスの場だ。家庭が外界の寒風から身を守るシェルターにはならず、安息の場でもなく、親との契約に縛られた努力の場でしかない。そんなのが家庭と言えるだろうか。
家庭から基礎力を得られない、家庭に守られない子供の行く末は………。思い当たる部分のある方は、今からでも遅くない。少なくとも、目覚めないよりは良い。それこそ、努力の時ではないだろうか。
また、人間、10年単位の不遇時代というのはよくあることだ。力のない人はその間、苦しんだり影の薄い存在になっているだけだ。しかし、努力で何とかその谷間を実のあるものにしよう、できる、自分は谷に落ちたままではいないぞ!、という生き方が、前述のその一〜その三の人達のように思える。
その期間に、ジタバタせずに日陰で英気を養っていたならば、次の山にしっかりと登れる筈なのだが、「成せばなる」で厳しい努力をしてきた人達の運気は、かなり無理を重ねた変則的なものになってしまい、流れが読めなくなっている場合が多い。
筆者が頭を悩ますのは、無理をして不運期を取り繕ってきたぶん、晩年に付けが回って来るのも、このタイプの人達に多いからだ。晩年運と子供運は関連しているので、親は立派で努力家だが、子供はドロップアウトした、というのも、このタイプの人達に多いような気がする。
あんまり調子のよくない時に、流れに身を任せて漂っているだけ、というのは努力家からすれば怠け者なのだろうが、もう一つ上から見ると、その方が長い目で見ると賢いし、自然な生き方なのかもしれない。努力で何とかしよう、なる筈だ、というのは、人間の思い上がりのような気もする。
かといって、不運期に努力しなくていいというのではなく、あくまでも陰の時代には陰の努力の積み重ねがあってこそ、陽の時代の積極的な行動の素地が作られるのだと思う。
そのへんを取り違える人が多いのは、残念なことだ。また、海外生活に縁のある人にそのタイプが多い、というのも偏見かもしれない。しかし、いったん海外に出てしまうと、引き返すことの出来ない流れに乗ってしまい、それが本来の自分の流れとは逆流であることも多いので、影響もはっきりと出てくるような気がする。
映画を見ながら思ったことなのだが、やはり陰と陽は、同じぐらいの率で人生を蔽うものだし、陽は好まれるので良いとしても、陰の要素との付き合い方で人生は決まるような気がする。
前に進めば後ろに隠れる人が居る。勝者がいれば敗者が居る。後ろを振り返るのは悪いことなのだろうか?もしかして、この辺に因果の法則の外にある「徳」を考える鍵があるのではないか、とも思うのだが…。
まあ、事業家なんかの経済性優先の人には好まれない話だろうが、家庭を持つ者、使用人を持つ人、上に立つ指導者、社会的影響力を持つ者…、この陰と陽の問題を、果たして避けて通れるだろうか?
ミリオンダラー・ベイビーを見ながら、つらつら考えたことでありました。