吉村昭・訃報(2006年8月6日の日記)

08 January, 2006

7月31日に、数々の記録小説で知られた吉村昭氏が亡くなり、NHKでも特集を組んでいたようだ。

吉村昭は、様々なドラマの原作者としても知られるが、その感傷や思い込みを排除した骨太の作風に触れた人は、作品を次から次へと読み漁った経験をお持ちのことだろう。

筆者もかなり長い間、作品の虜になり、本棚のかなりの部分を吉村氏の作品が占めている。どの作品を取っても外れがないので、わざと読まずに、退屈した時や、つまらない本を読んでしまった時の口直しに取っておく、という人もいるぐらいだ。

筆者が最初に作品に触れたのは、オール読み物に掲載された「光る壁」だったと記憶しているが、「高熱隧道」「破獄」「長英逃亡」 「漂流」など、他の追随を許さない迫力と面白さだった。もともと、凝りだしたら止まらないタイプの筆者なのだが、今考えると、吉村昭ぐらい夢中になって読みふけった作家はいなかったと思う。

他の作家でも好きな作品は幾つもあるが、多くの作家は、だいたい何作かの優れた作品を書くとエネルギーが尽きるのか、後は似たような作風ばかりになるような気がする。
しかし吉村昭に限っては、次から次へと、歴史的事実の中から、予想もつかないほど広く深いテーマを見出し続けた稀有の作家だと思う。それは、事実という、重い素材に対する畏敬の念から生まれるものだろうし、素のままで取材に取り組む過程で、同時に自分の作家としてのエネルギーも燃やし続けて来られたのではないだろうか。凡人の真似できることではない。

筆者などは、電車の中でも寝る時でも、とにかく本から目を離すのに非常な努力を必要とするほど、熱中して読んだものだ。もともと非常に眼は良く、食事の時も寝る時も毎日十数時間読み続けても視力の落ちたことのなかった筆者だが、吉村氏の作品を読み続けている何年間かの間、初めて視力が落ちたのを感じたぐらいだ。

「歴史小説」「記録小説」というと、何か色がついてしまって食わず嫌いの人もいるかもしれないが、事実に基づいた題材の重みと、私情を交えない淡々とした骨太の作風がマッチして、ノンフィクションでもなく、しかしフィクションには到底真似のできない、独自の世界を構築した作家だったと思う。
独自の世界というと、自分とファンにしか通じない世界に閉じこもってしまうタイプが多いようだが、吉村氏の場合は、「頭ではなく手と足で書く」という作風が、一人の人間の思い込みや甘さを否定した、とても清々しく風通しの良い作品世界につながったと思う。

様々な賞を受賞しているわりに、芥川賞を落ちているが、吉村氏に賞なんて必要だったのか、という気がする。芸術性だとかジャンル分けだとか、そんな文芸の世界だけの要素よりも何よりも、本の面白さ、有用性を教えてくれた氏に対する感謝賞・優秀賞その他言葉に出来ない多くの賞は、一人一人の読者が心から捧げたのではないだろうか。プログや文芸批評を書かない一般読者層の中にこそ、地道に厚いファンが存在するのではないか、と思う。

そんなわけで、あんまり文芸批評は好きでないのだが、柄にもなく語ってしまった。語りつくせない作家ではあるが、まだ読んでいない人は、新潮文庫や文春文庫の収録分、とにかくどれから紹介していいか分からないぐらいの秀作ぞろいなので、ぜひ本を手に取ってみて下さい。
作家や作品に合う合わないがあるなら、特にエンジニア気質の人や「プロジェクトX」の好きな人に合う作家ではないだろうか。むしろプロジェクトX見るよりも、氏の本を読むほうが数倍楽しめることは受けあいます。

そんなわけで書棚を見返していたら、人気のある作品の一つで、大正時代に北海道の開拓村が羆に襲われて多くの死者を出した事件を扱った「羆嵐」を思い出した。
これは'80年にTBSがラジオドラマ化し、今でもラジオドラマの金字塔と謳われる、記念碑的作品だ。テレビドラマとしても制作したそうだが、村人が羆に食われるという内容なので、テレビよりもラジオにうってつけの題材だと思う。じっさい、見えない怖さというのは、映像とはまた別種のものだ。

筆者は幸いなことに、これをカセットテープに録音してあった。デジタル化してノイズ除去してまた聴いてみようかな。

tao

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