今年を振り返って1・自然災害と人間

19 December, 2011

少し早いが、今年の反省。慌しくショッキングだった2011年も残り少なになった。一般的な干支九星暦では2月立春が年明けなので、まだ少し間があるが、冬至を一年の基準とする世界では、12月22日が一つの節目になるので、もうすぐだ。

災害や天変地異に関しては、各方面でいろんなことが言われ、研究やら予測やらが行われているが、これと言った決定打がないのが現実。東洋学でも六十干支やら九星やら、いろんな方法で研究しようとする向きがあるが、私は天変地異に関してはあまり当てにならないと思っている。

何故なら東洋学…この場合は干支学とほぼ同義語と思っていただいて構わないのだが、東洋学は「流れ」を重視するからだ。従って、何らかの要因で突出した変化があるのは予測しづらいと思う。
東洋学では、人間の運勢の起伏を、植物の消長になぞらえて考え、それだからこそ頑張った後には休養を取って次の活動期に備える、というような見通しが出来る。よく、最近、運勢が悪いので、何とかして好調な運気を取り戻したい、というような向きもあるが、それは無理な話だ。どんな頑丈な人だって、たとえ機械だっていつかは壊れる。頑張った後は当然、ガス欠になってしまうので、しばし英気を養わないと次の活動には移れない。

早い話が、不眠不休というのは無理なので、人間は毎日、一定時間起きて活動した後は眠るわけだが、短期、中期、長期的な運勢に関しても同じことが言えるので、太陽の燦々と降り注ぐ昼間があれば、ものみな寝静まる夜もあるわけなのだ。一日24時間の時間の流れになぞらえても良いし、春夏秋冬の四季の変化で考えるのも良いだろう。その流れに逆らわない生き方をするほうが、余計な軋轢に苦しむこともないと思う。

自然界の活動にしても、一定のパターンや流れみたいなものがあって、地震や火山活動の研究も、その流れを観察するところから始まるようだ。
しかし近年、地球全体が激動期に入ってきたという話もあり、地球の活動なんて何万年規模なのだから、自分の生きているうちには関係ない、とばかりは、あながと言っていられなくなってきたようだ。

更に、地球の表面にウジャウジャと(笑)蠢いて、チマチマした活動を再現なく繰り返している人間という生き物が、異常に増えすぎてしまい、だんだんと地球の形状を変えてしまうところまで来ている。これが果たして、どういう結果を招くのか、誰にも予測がつかない。
医学の分野でも、筆者の若い頃に、試験管ベビーという名で衝撃的な目で見ていたことが、不妊治療で当たり前のように行われるようになったし、代理母とか臓器移植、臓器売買なんて、ホンの3〜40年前にはSFでしかなかったことが、珍しくなくなってきた。

しかし人間のクローンだとか、フランケンシュタイン的な試みは、決して技術的に不可能ではないものの、生命倫理という規範が取り沙汰されるようになって、一定の線を越えないような方向で配慮されつつあるようだ。

ところが、この2011年に至り、原子力というような、いかにも近代的に実用化された技術が、果たして人間の営みとして適切なものかどうか、新たな課題となって立ち塞がってきたのではないか、という気がする。
知れば知るほど、核分裂や核融合というものを人間が使いこなそう、しかも僅かな楽しみや便利さの為に浪費しようというのは、身の程をわきまえぬ傲慢さの極みではないか、という気がしてくる。

山岸涼子の「パエトーン」という作品で、神に成り代わって太陽の車を思いのままに操ろうとした若者が、原子力を思いのままに操ろうとして失敗した福島の事故を髣髴させて注目を集めたようだ。
しかし、事故から10ヶ月経った現在、いったいどこまで汚染が広がるのかも不明のままに、世間ではまるで事故などなかったかのように、表面的な日常を送っている。
野田首相の冷温停止宣言なんて、安全に冷温停止するのが目的ではなくて、冷温停止宣言をするのが目的なのだろう、としか思えない茶番劇だ。どこに燃料があるかも分からないのに、目測でぶっかけた水が何度になろうが、それがいったいどれだけ安心できる材料になるというのだろうか。案の定、外国では冷ややかな見方がなされているようだが、足元が揺らいでいるのに真実を見ようとしない人の、何と多いことだろうか。
テレビでも、番組によってかなり温度差があるのだが、いい加減で自分で目を開けて自分の判断で行動しないと、取り返しのつかないことになってしまうような気がする。

ちょっと月並みだが、沈没船のジョークというのがある。いろんなバージョンがあるようだが、基本は同じだ。

ある豪華客船が沈没し始めた。船長は乗客達に、海に飛び込むよう指示しなければならない。苦慮した船長は、それぞれの国の人にこう言う。

アメリカ人には「飛び込めば、ヒーローになれますよ。」
イギリス人には「紳士の方は、飛びこまれています。」
ドイツ人には「飛び込むのが規則です」
フランス人には「飛び込んだ人はまだ誰もいません。」
イタリア人には「飛び込むのは法律違反です。」
日本人には「皆さん、飛び込んでおられますよ。」

アメリカ人〜イタリア人と、日本人とでは、決定的な違いがあると思う。日本人以外は、それぞれ癖はあるものの、全て自分の判断。しかし日本人だけが右へ倣えという訳だ。

現在は、ちょうどこの同調圧力がかかっているにも等しい状態で、自分の身を守るのは自分しかない、ということを肝に銘じなければならない。

筆者は子供の頃、B型のせいもあってか(笑)、人と同じだと気に入らなくて、必ず違うことをしていたが、ある意味でこれも人が気になるということかもしれない。年を取るに従って、ほとんど人の動向は気にしなくなったが、自戒の一助にしたいと思う。

tao

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