ダウト〜あるカトリック学校で〜

19 November, 2009

ネットでもかなりな評判になっているようだが、レンタルで鑑賞した。
タイトルの通り「ダウト」はDoubt、つまり疑いをテーマにした話だ。

舞台劇の映画化だが、いかにも大作といった感じの映画ではなく、脚本と俳優の演技に追うところの大きい映画で、こういう作品はもともと、ぬるい作り方、ぬるい鑑賞のしかたを許さない。

こういう作品がアカデミー賞に顔を出すのはとても喜ばしいことだが、序でにディズニー配給と聞いて、ちょっと意外な感じもしてしまった。


また、こんな複雑な背景のある心理戦的な映画は、字幕では辛いので、筆者はまず吹き替えで見ることにしている。
映画は劇場で見なければ本当には分からない、とする方もいらっしゃるだろうが、それならば、相当な英語力の持ち主でない限り、外国映画を見ることじたいが既に無理な話だと思う。
吹き替えで見てスンナリと映画の世界に入り、また字幕で見直して俳優の演技を楽しめるのは、DVDのメリットだと思う。

個人的には、「十二人の怒れる男」「ロープ」など、限られた登場人物と密室めいた条件で展開されるドラマは大好き。
このタイプの作品は、脚本と俳優の演技力でほとんど決まってしまい、映画となるとそこにカメラアングルで工夫が入る程度だ。ごまかせる要素がないので、自信のない脚本家や俳優はタッチする余地がなく、傑作が生まれやすい。

この作品もちょっと、そういう密室劇めいた作り方なのだが、残念なことに、ストーリー展開の緊密度という点では、私には今ひとつに思えた。
しかし素材の秀逸さと俳優の実力に支えられて、なかなかの秀作に仕上がっていると思う。


■あらすじと配役
舞台は1964年のニューヨーク。ブロンクスのカトリック学校で、校長のシスター(メリル・ストリープ)はある疑惑を持つ。
進歩的な型破りの言動で生徒の人気を集めるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、学校唯一の黒人少年に目をかけている。
理想に燃える若い新任教師(エイミー・アダムス)は、神父と少年の関係にふとした疑いを持ち、校長シスターに相談する。
厳格な教育態度で恐れられる校長は、もともと神父の言動に反感を持っていたことも手伝い、疑惑の追及に拍車がかかってゆくのだ。

メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの丁々発止と聞いただけで、思わずワクワクしてしまうが、物語は期待を裏切らず進行してゆく。そして中盤で黒人少年の母親が登場し、ある知られざる事実が明らかにされていくのだが…

60年代に聖職者がどういう目で見られていたのかは知らないが、かなり昔から、聖職者の性的な堕落は、繰り返し文学や映画に取り上げられている。
特に現代では、シスターとか神父がややスキャンダラスな臭いのする映画に出てくると、即同性愛者みたいな先入観を持って見てしまう場合も多いだろう。

しかしこの映画の面白いところは、最後まで見終わっても、真相が分からないことだ。舞台でも映画でも、白か黒かは演出家と神父役の俳優にしか知らされずに上演されたそうだ。シスター役の女優は、意地になって神父を追及し、更にその追及が自分の身に跳ね返ってくる思いを味わうだけだ。

観客の方は、あれこれ自分なりに観察したり推測しながら、疑惑を楽しむという趣向。
いろんなレビューや掲示板を見ていて思うのは、神父が白か黒かというのは、人生経験によってずいぶん感じ方が違うな、ということだ。

前歴があるという引っ掛けをどう見るか?
性癖や立場からして、当然クロと考えるか?
それとも、清濁併せ呑む大きな人物と見るか?
フィリップ・シーモア・ホフマンが出てきただけで怪しい、という見方もアリ?


■冷や汗体験
いろんな見方が出来るのだが、筆者は何となく、遠い昔に出会った教師のことを思い出していた。
中学校時代のある男性教師なのだが、彼はどこかの女生徒との性的スキャンダルが原因で、転校になってやってきたとのことだった。
今だと青少年保護育成条例だか淫行罪だかで、完全にアウトなのだろうが、その時代にはまだ淫行罪なんて言葉もなかったので、転校処分で済んでいたのかもしれない。

たかが中学生の噂話なのに、なぜそこまで情報が漏れていたのか、今考えると少し不思議な気もするのだが、何せその噂は着任前に既に知れ渡っていた。

この映画の中でも、神父が説教の中で、噂話の広がり具合に関する喩えを、当てつけのように話すシーンがあるのだが、このタグイの話は本当に、不思議なぐらいに広がるものだ。

という筆者当人も、考えてみたら、高校を出てすぐに未婚の母という経歴の持ち主なので、噂話の好餌になっていたのは確実。当人の身辺は至って平和なものだったが、あれはたぶん、家族が身を挺して守ってくれていたのだな、と、今更ながら冷や汗ものの体験がある。実際、家族が私の為にかなりな仕打ちを受けていたのが、後で分かって驚いたし。
元同級生からも「大変な噂だよー!」と言われ、そりゃそうだろうな…とは思ったが、たかが結婚や出産に関わる個人的なことぐらい、当人にとっては別にどうということもない。みんな、噂話のネタが出来てよかったね、程度にしか思わなかったが、かなり危なかったのだろう。盲、蛇に怖じずか?

しかし一番冷や汗をかいたのは、近年、映画「マグダレンの祈り」を鑑賞した時のことで、この時代に自分が居たら、確実に刑務所送りだな、と思ってしまった。
この話は、昔読んだ立花隆の一連の性革命レポートもので知ってブルッていたのだが、改めて映画で見ると怖気を振るってしまった。実際にはもっとひどかったらしいのだが、真面目な話、魔女裁判があったら、私なんか確実に有罪に間違いない。

出身が福岡という、わりに開放的で自由な土地柄なのも幸いしていると思う。私はどこに居ても間違いなく、既成概念とは違うことをしている自信があるので(アセ)、これがもっと閉鎖的な土地柄だったら、家族ごと村八分で抹殺されていたに違いない。


■もう一つの解釈(番外篇)
この映画に関して言うと、このタグイの噂や疑惑って、当人の素質、経歴、年齢によってかなり考え方が違うと思うのだ。
そこで、たぶん一般とは相当に変わった経歴の持ち主であろう、筆者の考え方を一発。

普通の白か黒かの考え方とはかなり違うと思うのだが、神父と少年の間にそういう事実があったとしても、疑惑は白。
こういう考え方もできると思うのだ。

映画の中で、疑惑の真偽について、細かい描写があちこちで出てくるのだが、人それぞれ、性癖もそれぞれだ。子供を虐待してはいけないけれど、必ずしも当の疑惑イコール虐待ではない。
相手を傷つけない為に、あえて相手と同じ世界に入っていくことだって、あると思うのだ。

映画を見ていない人は、何のことか分からないと思うが、ネタバレになってしまうので、これ以上説明しない。映画を見た後でもう一度考えていただくと、分かるかもしれない。

少し物分りが悪いので…と仰る方の為に、もう少しヒントを書いておくと、少年の母親が、はっきりとその答えを述べている。神父側の事実は、あくまでも霧の中だが、事実と真実は必ずしも一致しないということも、考えたほうが良いと思う。

筆者の考え方まで来てしまうと、かなり白黒の判別がゆる〜くなるのだが、こういうのも、番外編として一興ではないだろうか。


最近の、何でもきっちり説明してしまいがちな映画を見慣れている人には、物足りなかったり、分からないことだらけの映画かもしれない。
また、白か黒かの回答がきっちりとある筈、と知らず知らずにどこかで信じている人は、たぶん誰かに回答を求めてしまいがちだろう。しかし、回答はないし、上記の筆者のようなトンデモ回答だって、世の中には存在するのだ。
マニュアルに頼りがちな人にこそ、見てもらいたい映画かもしれない。

tao

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