駅伝不要論?

03 January, 2009

元日の日誌で、武道界の現状とか矛盾みたいなものに少し触れた。
折りしも、正月の2日、3日は箱根駅伝が開催され、年中行事の一つにもなっている。
正月でみんな家にいる時期なので、この大会に関心が高まるのは分るのだが、下手の横好き的な感じで武道やダンスにかかわっている筆者からしてみると、駅伝というのは、あんまり見たくないスポーツの一つだ。

武道というのは、とっても一般に誤解されがちな世界だ。全く武道に縁のない人からすると、武道に関わる人達というのは、とってもアクティブで運動神経も発達しており、心身ともに強い人達なのだろう、という思い込みがあるらしい。

筆者から言わせると全く反対で、最初から運動神経が抜群で心身ともに強い人達は、あんまり武道には熱心ではないような気がする。
それでは、弱い人達が集まっているのかというとそうでもなく、運動神経はさほどでなくとも、一定のしぶとさとか向上心がないと、とても続かないのが武道だ。

私は、武道と近代スポーツの最大の差は、武道はその人なりに向上して、昨日の自分よりも今日の自分、更には明日の自分のほうが強くなっていれば認められるのが特徴ではないか、と思っている。
段位認定などのシステムにそういう基準が設けてなくとも、武道の稽古体系じたいに「弱い者を強くする」というシステマチックなものが強力に備わっているので、どんな人でもしぶとくついてくれば、前の自分よりは確実に強くなれるところに、武道の値打ちがあると思う。

それに比して、近代スポーツはどうしても、記録との競争、他者との競争になることが多いので、自分なりに…ではあんまり評価されないところが辛い。

なので、近代スポーツでは、潜在能力も含めて、最初から能力のある者を抜擢するほうが好ましいに決まっている。
武道では、どんなに能力の無い者でも、その人なりに向上できれば、当人も指導者も喜びを覚えることができる。
まあこれも、流派なりの一定の洗練された技を伝えるには、あるレベルの能力が必要なので、あんまりのんびりしてばかりも居られない。しかし、よほど懐の狭い流派でなければ、技が素晴らしければそれに見合った一定の才能はその世界に飛び込んで来るので、そんなに心配したことでもない。

それに、武道家は基本的に全部アマチュアで、専業はひどく少ない。他の仕事で生計を立てながら長年月続けることを前提にしているので、技も人間関係も何十年の単位でのんびり構えていることができる。その為に、年功序列の弊害もありがちなのだが、きちんと審査をする組織に関しては、口だけ武道は通用しない。
もともと、年取ってもなお矍鑠としていられるのが理想なので、体力の真っ盛りの時に早くしなければ後がない、という焦りがないのも良い。

武道は基本的に個人種目だが、相手あっての技だし、一緒に上達しなければ一人では良い稽古はできないので、あんまり同僚と争うということもない。うまくいけば、個人種目と団体種目のいいとこ取りの恩恵を受けることができるという、競争心のなさすぎる筆者としては、有難い世界だ。

マラソンは基本的に個人種目だが、これが駅伝になると、単にマラソンの半分近くの距離を走るだけではなく、団体種目のプレッシャーがズッシリとのしかかって来る。団体種目と言っても、野球みたいに誰かがトンネルした球をキャッチして見事にカバー、「ドンマイ、ドンマイ」などという長閑さもなく、(自分が足を引っ張ってはいけない)という責任感とノルマばかりが、のしかかってくる。

マラソンの大会では、ゴールインした後も涼しい顔でクールダウンを兼ねたグラウンド一周。余裕のある爽やかな笑顔を見せる選手も少なくない。競技場に戻ってからの丁々発止、ゴール直前の抜きつ抜かれつのラストスパートなんか見ているのは、とても楽しい。

しかし、箱根駅伝なんか見ていると、自分の区画を走り終えた選手が、どれもこれも、ひどく苦しそうな顔をしている。バッタリ倒れこんで、そのまま運び去られる選手も少なくない。
無事ゴールしたことを喜ぶよりも、(そんなに無理して、後は大丈夫…?)と心配になってしまうことが多い。もしかしたら、苦しそうな顔で「チームの為に全力を尽くしました。もう力は残っていません」というアッピールが伝統になっているのだろうか?と皮肉なことを考えてしまったりもする。どっちにしても、全然美しくも爽やかでもない。

事実、過去の大会では途中棄権という事態も出たようだが、あのプレッシャーの中、やむなく棄権に至った選手の負い目と心の傷はどんなだろうかと思う。
血気盛りで体力も最高潮の大学生のこと、たとえ故障があっても、それこそ根性論で「何が何でもやったるで!」となってしまうのだろうが、チームでの順位とタイムを競う駅伝という競技そのものが、出場者に無理を強いてしまうものなのではないだろうか。

世には、箱根駅伝で活躍した選手がその後伸び悩む事態を指して「箱根駅伝不要論」なるものもあるようだ。筆者はマラソンにも駅伝にも全く詳しくないので、そういう専門的なことは分からない。
しかし、単純な野次馬の目で、かつ武道という厳しくも大らかな世界を背負って見ていると、普通に見て(こんなに注目されながらチームで走るのでは、無理しすぎちゃうだろうな…)と思ってしまうのだ。

スポーツとは本来、こんなに難行苦行で、時によっては人間を潰してしまうものだったのだろうか?その負の部分が如実に散見されるのが、箱根駅伝のような気がして仕方がない。
幾ら勝者になって美しい青春の一ページを刻んだとしても、その陰には多くの敗者の屍が横たわっているわけだし、どうしても、見ていて気持ちの良いものではないのだ。

ひねくれた見方かもしれないが、現在のような形ではなく、もう少し皆が幸せになれるようなスポーツの世界があってもいいのではないか、と思ってしまうのだが。。。

tao

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