易とおみくじ

25 August, 2008

最近、少しづつ易の勉強をしている。
勉強するといっても、各卦象などは本をひもとけば済むことだし、六十四卦を暗記することが重要だとは思わない。
易を立てる時に、その都度、参考書を読みつつ研究すればよいことだし、易のポイントはそんなことではないと思う。

今回、おみくじの応答文を手直ししたが、おみくじとはなかなか奥の深いもので、易とおみくじには通ずる部分があるような気がする。

周知のように、おみくじを引くという行為は、偶然の産物に寄りかかっている。しかし、神社仏閣にお参りしておみくじをいただいていると、馬鹿にできないものだ。
もちろん、お参りに行くにも物見遊山のついでではなく、きちんと信仰の対象としてお参りに行くのでなければならないのは、言うまでもないが。
そうやって何度かおみくじを引いていると、「神さま、どこで私のこと見てたの?」という感覚になってしまうことがしばしばある。
ちなみに、おみくじを引いたらそのへんの木の枝かなんかに結び付けて厄落とし、なんてのは…世間の人の行為ですね。世間の苦労から逃れたくていろいろやってるのに、そんなことしてたんじゃ成長がないのでは。。。

私はおみくじ専用のファイルを作り、おみくじを貼り付けて、いつどこでひいたおみくじか記録して、分かりやすいように整理している。
そんなに神社マニアではないし、だいたい行くところは系列が決まっているのだが、手放すにはあまりに惜しいおみくじが多いからだ。

おみくじには凶はないという説もあるが、そんなことはどうでもいい。吉凶よりも、肝心なのは内容。
いちおう吉なのに、内容をよく読むと、これのどこが吉なの?という厳しいおみくじもあるし、凶だけれどまことにもってその通り、と、身に沁みて納得のいくおみくじもある。
昔、修行時代にはよくあちこちの神社仏閣に行ったものだが、その頃のおみくじが手元に残っていないのは、惜しい限りだ。

おみくじが、例えばガラガラガラ…とやって一枚ひく、或いは機械に硬貨を入れると、ガッチャンと一枚出てくる…と同じように、易を立てるには何かの道具を利用する。
筮竹、或いは硬貨などを利用し、シャラシャラシャラ…と混ぜ合わせては、エイッとばかりに分けて、何かの組み合わせを作る。
その組み合わせを読み解くのは、深遠な儒教哲学に基づく思想体系で、教科書は四書五経の中の「易経」である。

しかし…いくら易経が深遠な哲学書であっても、易を立てる物理的行為そのものは、おみくじをひく行為となんら変わりは無い。
いや…おみくじどころか、そこらへんのルーレットとかスロットマシンと全然変わらないのだ。タロットカードしかり。ところが、これは究極の占いの形態ではないかと思う。
これら易やタロットは、占星術や推命学など、データを元に読み解くタイプの占いとは別系統で、連綿と歴史を重ねてきた。データタイプの占術家でも、この博打タイプの占術を馬鹿にする人は少ないと思う。

人様の鑑定をしていると、幾ら四柱推命で複雑なデータを作っても、結局とどの詰まりは、ものを言うのはインスピレーションだと、感じざるを得ない。インスピレーションはデータの裏づけか、はたまたその反対か?占術を人に教えられるようで教えられないのは、この部分だ。

易で難しいというか一番肝心なのは、卦象の勉強よりも、この「易を立てる」行為にどれだけ磨きをかけるかではないだろうか。
「清浄決済」「再三すれば穢る」なども、易を立てる上で必須の、見えない世界への敬意のあらわれ、綱わたしの一つの条件だと思う。

私は日課として自宅で読経をするが、読経というのは不思議なところがあって、自分でも何か違う力が出てくるのを感じることがある。一時ほどの勢いではないものの、普通の勤行とは別に、「法華経三部經全巻」を通算何百回かはあげている。易を志す人には、机上の勉強だけではなく、何か身体を使う修行が伴わないと、なかなか易は立たないのではないか、と思う。

私がこのように徹底して読経の出来るような環境を得たのも、自分の一つの縁だと思うが、最初の頃は、読経ってこんなに苦しいものか…と、いささか驚いた。
息は切れるし口は回らないし、なんだか「此經難持」(この經持ちがたし)を地で行っているような気がした。前、講座のオフ会で写経の前にみんなに少し読経をさせてみたら、スラスラとあがるのにびっくり…教え方がうまいのかなあ(笑)。

ただ、割りにいろんなことがスラスラ出来て、浮世の苦労の少ない人って、どうも一定以上は信心が強くならない気がする。
信仰にすがる必要がないからさ、と言ってしまえばそれまでだが、なんとなくリビドーが薄いっていうか、いろんなことがすんなりとまとまってしまうと、あまり苦労もない代わりに、トンガったり突出したところも出来ないっていうか…、どっちが良い悪いという話ではないのだが、少なくとも占術に深く入ってくるタイプではなさそうだ。
自分自身のことを言えば、何をやっても最初は誰よりも目だって出来が悪い(笑)。どうなることか、と思うほど、何をしても下手だ。
ところが、追求のしかた、熱心さ、凝り方が並外れているのか、すぐに人を追い抜いてしまう。落差が激しい。だから、いろんなことが面白くて仕方がないのだが。

読経に関しても、始めたのが20年以上も前、その頃の苦しさからすると見違えるようになったが、最近、自分で自分の欠点が分かるようになってきた。
一定調子を持続するのが難しいのだ。
読経は歌や御詠歌のように節をつけずに、一定調子で上げるのが基本。(声明は別)。ところが調子を上げたり下げたり、言葉に抑揚をつけたりすると楽だ。流れるというか、外れる感じか。
私は放っておくとそうなりやすいことを発見した。これが、「我流」というものなのだろう。
たぶん、自分の欠点とか業みたいなものが、読経のしかたに如実にあらわれているのかもしれない。とりあえず、他のことはそう簡単には直らないから、読経する上でこの欠点を直す…これが本来の意味での「形から入る」ということなのではないか、なんて思った。
易を立てるというのは、知識でもテクニックでもなく、自身の向上に伴って力がつくものだと思う。修行の一形態のようなものか。
六十四卦に通じるという道は、とても遠いと思うし、簡単にインスピレーションが湧いて、それがどうしたとかいうものでもないと思う。

まず、続けること、信じ続けることが第一なのではないだろうか。さっきの「此經難持」ではないけれど、ものごとを続けるということは、熱心に続けるのも難しいが、つながっているだけでも難しい。
根っこには「信」を試されるという側面があるからではないだろうか。

易の勉強も読経も一生ものだ。一生のうちにあと何回、法華三部經が上がるだろうか。一回上げるのに、日蓮宗では初心は一ヶ月に一回上げるスケジュールを組むと聞いたことがあるが、私は8日でワンラウンドの設定が一番ちょうど良い。前は午前・午後で一回全部上げたことがあるが、足が立たなくなって声が出なくなった(笑)
今はもっと辛抱がきくと思うのだが、いろんなことをバランスよくやっていきたいので、無理はしない。

易のほうも、早く正確にバンバン易が立つといいな、なんて、毛頭思いはしないが、ある程度の集中も必要。
…なんて思う昨今でした。

tao

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