満身創痍

11 July, 2008

イタタタタタ…
満身創痍という感じ…

今月は杖道の大会があるので、稽古に気合が入ってます。
何かと仕事も忙しいのだけれど、この大会だけは逃げられないので、ひとまず7月の連休にこの大会関係の行事が済むまでは、諦めて稽古にいそしんでおりますが、日に日に増える打ち傷のお陰で、水着になるのが恥ずかしい。

武道の稽古の合間に水泳でほぐす、というスケジュールはなかなか具合が良いのだけれど、腕や肩や背中や太腿など…競泳水着から
出ている素肌が…変態男とでも付き合っているのか?と思われても仕方がない状態になりつつあり…(笑)

いや実は、水着に隠れている部分はもっとひどいのですが。鳩尾や脇腹付近など。
今ちょうど青痣ばかりで、一番痛い時期。これが赤や紫や黄色など、カラフルになってくると、ほとんど痛くはないが、みっともなさは倍増(笑)。

ちなみに、合気道のほうは、もうほぼ引退しました。
約20年稽古してきたが、稽古体系や宗教性などいろいろな疑問もあり、何せ怪我が多かった。それで、古武術関係と質的に両立しないな、と感じ出した時点で自然と稽古から遠ざかりだし、今年還暦を迎えることでもあり、若い時のようにドッタンバッタンはもう控えようという感じ。
武道は杖術メインで、後は水泳や各種エクササイズなど、健康促進に役立つものを併用していこうと思ってます。ダンスもゴリゴリのHIP HOPよりも、足を使うダンスに切り替えていきたいと思ってます。

こういうことをやっていると、どうしても怪我は避けられないのだが、得物関係では細かい怪我は絶えないものの、そんなに大きな怪我はない。先年、右手の親指を打つ技を捌き損なってきちんとその指を打たれ、爪が死んでしまって自然に剥がれた程度。

合気道の怪我はハプニングによるものが多いが、杖の技は基本的に全てがコントロールされているので、ある意味で怪我も理に叶っているような気がする。
親指を打たれたと言っても、普通ならば指を斬り落とすところを、当たった瞬間に本能的に手の内を緩めてしまうので、爪が死ぬ程度で済む。ちなみにその爪は最初に生えてきたやつはデコボコして変な爪だったが、今はちゃんと普通に生えています。

昨日は、見事に師匠にやられました…
普段、古流が稽古のメインで、大会で標準の制定型がお留守になっていたのか、裁きの角度が完全に狂ってしまっており、その隙を突かれて打たれっぱなし。めったにないほど汗をかいてしまった。運動の汗と冷や汗と両方…。

で、その場では「痛エェー!、やりやがったな!」と思いつつも、こちらの捌きの角度が理に叶っていないので、打たれて当然。本来は真剣で斬り殺されている筈なので、有難い愛の鞭?という事にしておいて…、
帰ってから確認したら…あんなに痛かったのに、打たれた場所は痣もなく、ちょっと張っている程度。
ところが、切られた箇所はきちんと斬り傷になっている。

いつもながら、これには唖然。
斬られる場所はだいたいが太腿。脂肪が沢山ついているので大丈夫、と踏まれているのか?或いは、足を大腿部から斬り落とす技が多いのか?
普通、下穿きズボンと木綿の袴の上から木刀でズバッと斬られても、こんなにスーッと綺麗な斬り傷はなかなかつかない。というか、つけることができない。
痛い目にあって、いったい何を感心しているのか…ここらへんが武道なんかやる人間のおかしなところかもしれないが。(笑)

ちなみに、身体各所のみっともない痣は、だいたいが後輩と稽古した時の物である。初心者はまだ手の内が出来ておらず、狙った場所をちゃんと攻撃できないので、加減ができない。
おまけに、ちゃんと刀の柄を取れずにこちらの指にガチャガチャ当たった日には、目も当てられない。今日も左手の小指が麻痺して動かない。これじゃあ、左の小指を締めたまんまで息を引き取りそうだ…(笑)

しかし、こんなシビアな場面って、普通の生活をしているとなかなか経験することはできない。我を忘れるってこういうことなのだろうし、何か習う、身につけるというのは、保身の意識があったら絶対にできないと思う。
よく「自分の出来る範囲で」と言うけれど、自分の出来る範囲だけで全てを済ませていたら、自分の出来る範囲はなかなか広がらない。そこで、「我を捨てて」打ち込むという場面が貴重になってくるのだろうが、これは背伸びすることとはまた違うし、稽古事とか修行の世界の難しいところなのだろう。

「鍛錬」という言葉がある。
「鍛」は10年、「錬」は30年と言う。鍛えただけで、その後で錬り込むことをしなければ、それはアッと言う間に白紙に戻ってしまうという教えだ。
何かを身につけるということは、ことほど左様に簡単なことではない、ということなのだろう。

「習うより慣れろ」とも言うが、これも私は余り支持しない。単に慣れているだけで、きちんと原理を把握して言語化していないと、年齢を経て頭脳や体力が衰えてくると、単に慣れているだけでは崩れてしまう。
若い時に(この人は天才か?)と思うほど上手だった人が、何年かのブランクの後で下手な凡人に成り下がってしまう場面を、何度も見て来た。

「習う」ということには、いろんな側面があって、習うのも教えるのも考えさせられることが多い。しかし、少なくとも、習うことイコール、ベルトコンベア式に楽なコースに乗せてもらうことではなく、「鍛」と「錬」に関しては自分で意識していかなければ始まらないような気がする。

今年も暑い夏です。私の奮闘する夏は、7月の大会まで。
その後は道場も夏休みに入るが、私は旧盆ごろの何となく殺伐とした空気が好きになれないので、旧盆が過ぎるまでは家で大人しくして、泳ぎこんでいく程度にしようと思う。

8月始めにまた更新を予定してます。

tao

« Prev item - Next item »
-------------------

Comments


No comments yet. You can be the first!

Leave comment

このアイテムは閲覧専用です。