蝶と蛾、鯨とイルカ、そしてモンキー裁判

01 July, 2010

先日、ベランダに飛来した昆虫のことで、大騒ぎして調べていて、けっきょくあれは蛾だった、ということに決着。
でも、あのサイズであの飛び方だと、昆虫に詳しくない人はだいたい大型のハチだと思ってしまうのではないだろうか。よく見るとだいぶ違うのだが。
でも、蛾というと、いろいろと考えてしまう問題もあるのだ。

私も多くの女性のご多分に漏れず、昆虫はあんまり得意ではないが、生き物はすべて持ちつ持たれつ、やたらに嫌うのもどうかという気がする。むしろ生物の中で徹底的に嫌われるとしたら、それは人間ではないか、という気がしないでもないのだが。
蛾に関しては、いろいろと思い出すことがある。子供の頃によく、「あ、綺麗な蝶だ〜」と弟なんかが喜んで捕まえてきたのを、親が「それは蛾だよ」と眉を顰めて言うと、「えっ?、なーんだ」とか「げっ!」となって、すぐに捨ててしまうという場面があった。

実はこれ昔、うちの父親がやっていた。自分で「蝶だ〜」と捕まえてきたのを図鑑で調べ、蛾だと知るや、「チッ」と捨てていたのを思い出す。
とーちゃん、蛾だとなんでそんなに嫌うんだ?綺麗なものは綺麗でしょうが。と、疑問に思って調べたことがあるのだが、実は明確な区分けはないのだそうだ。昼に飛ぶのが蝶で、夜に飛ぶのが蛾だとか、蛾は羽を広げてとまるが蝶は閉じてとまる、などで分類していたと思う。

確かに、蝶のほうが羽だけ目立ってひらひらと綺麗な感じで、蛾は胴体が太くてグロテスクに感じてしまうやつが多い。しかし実は、チョウはガの中の一つのグループでしかなく、きちんと分類することはほとんど不可能なのだそうだ。

と、ここまではいいのだが、先日調べた中に、チョウとガの違いに続けて、気になることが書いてあった。

岡田要監修「動物の事典」という本があるそうで、私は持っていないので、いちおうこの本にそういうことが書いてある、という前提で話を進める。万が一、書いてなかったり趣旨が違っていたら、この動物学者のことはなかったことにして、そういう前提でならそういう意見もある、ということにしたい。

この本の中に、「このようにチョウとガとをきちんと分けることはほとんど不可能であって、要するにチョウはガの特殊な一つのグループにすぎない。(以下略)」に続けて「(前略)それはちょうど、ヒトがサルの中の、それも類人猿の中の、特別なグループに過ぎないのと同じである。(以下略)」と書いてあるのだそうだ。

おや?思わぬところでこの問題が浮上してきたものだ、と私は思った。
この学者は1891年生まれというから明治生まれ。たぶんこの人の生きてきた時代には、人は類人猿の進化形であるとする考えが学会内で有力であったのか、或いはこの人の住む世界が、進化論を前提として話をすることに、違和感がなかったのではないか、と思う。

ところが時代は移って、現在では進化論は標準とは言い難くなり、論争の種になっている。世界の標準がどうなっているのか知らないが、進化論を前提にして話をしてしまうと、「進化論を絶対真実みたいに語るなよ」という反発が出てしまうのではないか、という気がする。
あくまでも気がするだけで、明治時代に実際どうだったのかは知らないが、少なくとも私の子供の頃は、進化論を学校で習うのが当たり前だった。「進化論には疑問を持つ人も居るんだよ」という注釈をつける先生も居たけれど。

上記の「動物の事典」の本をわざわざ引き合いに出したのは、進化論を前提で、説明されていたからだ。そこには、世間の人が進化論を当たり前に受け入れている、ということも含まれてしまう。それは少し、やばいのではないだろうか。

・人間はサルの発展形だから、人間とサルの間には決定的な違いはない。
・それと同様に、蝶と蛾にも決定的な違いはない。

果たしてこの説明は妥当なのだろうか。
人間は人格を持った特別な存在とされ、サルは動物として扱われているではないか。

一方では、蝶は好かれ、蛾は嫌われ者。
蝶と蛾はそんなに違わない、ということでいいと思う。
しかし、人間とサルの違いや共通点は、そんなに簡単には片付かないと思う。

進化論と創造論、いったい、どっちがホントなんだ?
考え方と好みによって、どっちでもいいのかもしれない。もし自分でどっちか選んでいいとなれば、進化論を信じる人の先祖は猿であり、創造論を信じる人とは全く発生の源が違うことになる。
一つの家族の中でも、進化論者と創造論者が居て意見が分かれたら、それは先祖の違う者が同じ家の中に生まれてきてしまった、ということになってしまうのだが(笑)。

こんなのは、考えてもしょうのない話かもしれないが、前「風の遺産」というアメリカ映画を見た。この映画はこのあたりの矛盾に真正面からぶち当たっていて、なかなか面白かった。アメリカはまた、州法とか原理主義とか土地柄などいろいろ複雑な問題が絡んでいるのだろうが、この「風の遺産」の舞台になったモンキー裁判はいまだに根強く私たちに問題を投げかけている。
人間の魂とか価値とか、生きざまとか死後の世界とかを気にする限り、必ずこれらの問題にはどこかでぶち当たってしまうのだ。

また、ついでに思い出してしまったのは、最近一部で騒いでいる、映画「ザ・コーヴ」の上映問題。
何せ実際に映画を見ていないので分からないのだが、伝え聞くところによると、イルカ漁を批判したドキュメンタリー映画だそうで、日本の漁村が舞台になっているそうだ。
その為、この映画を上映するのに反対する勢力があり、あちこちで上映中止があいついでいるらしい。

ダメだと言われても、既に映画は作られてアカデミー賞まで受賞しているのだから、良い映画なのか間違った映画なのか、自分で見てみないと判断できない。
「反日映画だから見るな」ってのもおかしな話で、もし反日映画が作られているならば、なおさら当の日本では、しっかり見なければまずいのではないだろうか?
批判が正当なものなのかまやかしなのか、見なければ正しい主張もできない。もちろん、映画を娯楽として捉えている人に、そういう強制はできないだろうが。

私は、イルカとクジラは大きさが違うだけで全く同類と教わったので、別にイルカをクジラの代用に売っていても不思議ではないと思う。
ちょうど近所に、美味しいクジラのフライを売っている魚屋を見つけたので、これ幸いとたまに買っては舌鼓を打っているところだが、これが調査捕鯨のクジラではなくもしイルカだったら、私もトンでもない人間なんだろうなあ…。

そんなこんなで話がこんがらがって来たが、
チョウとガの違い=大して違わない
クジラとイルカの違い=これも大して違わない

ここに、文化功労者でもあるかの動物博士が、何かのついでに「ヒトはサルの中の特別な一グループであるに過ぎないように、チョウもガの中の特別な一グループに過ぎないのである」と、何気なくか信念を持ってか述べられたということなのだ。
その為、ヒトの中でも偏った能力しか持たないハズレ者の筆者が、「あれれ?前提に疑問を持ってしまったら、前提の上に成り立つ説明はどう受け止めればいいのやら…」と、灰色の小さな脳細胞を活性化させなければならなくなってしまった次第(笑)。

果たして、人間と猿は全く異なる生き物なのか、或いは猿の成れの果てが人間なのか?どっちなんでしょうねえ。
なんだか、楽しみにしているクジラのフライも、あんまりイルカイルカと言われると、何となく不味くなってしまいそうです…

tao

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