2002年3月31日の日記

03 January, 2002

占いを統計と考えたり、心理学と考えたり、不可思議な心霊現象と考えたり、あるいは大自然の物理現象の一部と考えたり、いろんな立場があると思う。

占いに関心を持つ人達の間でよく話題に上がるユング。
昔一度、完全に心理学を捨ててしまった身ではあるのだが、今回の鑑定お休みの合間を縫って、占いをいろんな角度から再検討してみたいと思う。
というのは、最近、夢占いを作ろうと思い、さまざまな資料と体験などを編集して自分なりの解釈を施しているのだが、たとえ出来たとしても、この情報を公開するのが正しいのか?という難問にぶち当たっている。

ネットを取り巻く状況や心理学、精神世界の状況も変わり、私自身も変わったが、運命と情報の関係をどう捕らえるかという、次の大きな問題が待ち構えているように思う。

早い話、ある夢を見るとする。それが良い暗示の夢で、その人はじっさいにその通りになる。
もし、その人がその夢の意味を、何かで知るとする。しばらくすると、その人はまたその夢を見たいと願うようになる。
夢そのものが無意識の自我の産物であるか、あるいはまったく別種の現象であるかは別として、その人は次第に自分の夢を、願った通りに、強引に自我の操作の範疇に入れてしまう。

こう書くとたわいのない話で、それが一種の治療効果を上げているうちは何の罪もないのだが、これは占いが潜在意識に踏み込んで、実際の物理現象を容易に操作する力を持つということを意味する。
となると、送り手の筆者としては戦慄を禁じ得ない面があるのだ。医者や占い師の覚醒暗示というものは、当たる当たらないに係わらず、バカに出来ない力を持つものだ。

夢の無意識の操作、浅薄な理論の気学の乱用による運命の撹乱などは、ヒットラーの再現にも等しい。
それとも、人間は何かに支配されたがる存在だという節が実証されているだけだろうか?

「占いで未来が読めるならば、読んだことを元に災難を避けて、よい事ばかりがあるようにすれば良い。それでは未来が分かる事にはならないではないか?」という、大昔からのメビウスの輪がある。

まるでターミネーターの未来戦争のようだが、これはじつは、身辺に起こることがらの、時間的な経緯の読み方である。
結局は世界というのは、時間の観念によって決定されるのは、多くの識者の指摘するところでもある。

しかし、いろんな知識、人、物の中で、なぜ、その時間の観念の秘密が仏典に説かれているのか、経典というのはまるで未来人がタイムマシンで運んだものではないのか?という気さえするこの頃。

経典というものを知らない人にとっては、経というのは訳のわからない、単なる眠気を誘う呪文のようなものかもしれない。しかし、それでも触れないよりは良い。
法華経に限って言えば「身読」「意読」「心読」の三つのバランスが大切だとされているが、最初に入るのは「身読」である。意味は分からなくとも、読経の音波を受けているだけでも、いちおう身読にはなる。

この間、建設会社の広報誌の仕事でお会いした製作会社のプロデューサーが、「あなたのサイトだけは毛色が違いましたので」と言われたが、気学・風水の身読とは何であるのか、正しい方向性を見失わない為にも、このサイトは斯界に一石の波紋を投じる存在でありたいと思う。

3月末にあたって、少し真面目なことも考えてみました。

tao

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